先輩後輩 わが母校 (199) 日星高校③ 思い出


戦前は花嫁修行 悲しい閉鎖、学徒動員
昭和初期の舞鶴裁縫女学院は「塾」のようなもので、生徒はわずか十数人。その後、少しずつ増え、戦前の最高は十六十七両年度の約六十人。小学校高等科の卒業生が花嫁修業のために入学した。開校当時はキモノにハカマ姿、十年ごろから洋服がめだつようになった。学科は裁縫、珠算、習字が中心で、英語、数学、国語は一週計四十五時間。授業中、おしゃれ談義に花を咲かせたこともあった。十五年「舞鶴暁星実科女学校」の校舎新喚を祝い、父兄を招いて学芸会をひらいたが、出演する生徒が受け付けや雑用も兼ね、ひとり三役を演じた思い出は、いまもクラス会での語りぐさになっている。
悲しい思い出は、なんといっても十八年の学校閉鎖だった。全員、宮津暁星実科女学校へ移ったが、間もなく学徒動員。舞鶴市和田地区の旧海軍工廠へかよい、油まみれになって生産にはげんだ。
うれしい思い出は、戦後、ふたたび学園生活ができたこと。だが、新しい学園用に払い下げを受けた重砲連隊跡は荒れはてていた。とりあえず三教室を整備し、授業をはじめたが、が、窓のガラスは破れ、ガタガタのツクエで雨をふせぐだけの馬小屋教室、だった。ガリ版ずりの即席教科書や、古い教科書をつかって一日二~三時間の授業。あとはガラクタ整理に追われた。それでも学園に帰れた生徒たちは、だれ一人グチをこぼさなかった。二十三年度卒の一主婦は「夏休み、おやつに、ひとにぎりの塩豆をもらい、校内整備にはげんだ。不気味に光る銃剣、鉄カブトなどをいわれるままに防空ごうへ捨て土をかぶせた」と話している。
こうした努力がみのり、平和な学園に生まれ変わった。 このころ、舞鶴市三の丸、カトリックレデンプトール日本管区本部の初代管長に、ジェームズ・フーラー神父が赴任してきた。神父は校舎の補修費、教材などに援助の手をさしのべ、学園の充実に大きな役割りを果たした。
校門から約五〇mはいった中央に、聖ヨゼフ像を建てたほか、寄宿生のめんどうもみて、いまも職員、父兄、生徒から“慈父”としたわれている。
三十五年、学校歴が軌道に乗ると、校舎改築の声が高まった。
当時の育友会会長で、熱心な音の日之出化学工業舞鶴工場長、萩原晴郎氏の力ぞと父兄らの協力で、三十六年十月、工事は完成した。かつての兵舎は本館に、兵器倉庫は講堂に、営倉は寄宿舎、給食室に改築され学園からいまわしい軍事色を一掃した。
(清浄なふんいきに包まれた日星高校旧本館(中央)体育館と聖ヨゼフ像がみえる)